小山田氏炎上問題から考える、聖書の金言。

東京オリンピック始まりましたね!
開会式も無事終わり、BGMが名作ゲームから出たことでも随分盛り上がったイメージです。
無観客ですが、できる範囲での開催ということで、頑張って欲しいところ。
さて、そんな開会式で作曲担当をされていた小山田圭吾氏。
炎上して、辞任されてました。
今回はそのニュースから思うことを書いていこうと思います。
元記事はこちら。yahooニュース様より。
https://news.yahoo.co.jp/articles/28d04e7a6f7145cda72442f504ae3110a1a9d7e0

ざっくりニュースの中身を説明しますと。
過去に障害者に対する「いじめ」を自慢げに語っていた記事が見つかり、謝罪するも炎上が止まらず、辞任に追い込まれたというもの。
いじめの内容がちょっと常軌を逸しており、まぁ…って感じですが。
このニュースについて、皆様どう思われますか?
私は、聖書にある「罪の無いもののみが石を投げよ」という言葉が頭をよぎりました。別にキリスト教徒ではないですが。
「罪のないもののみが石を投げよ」は、姦通罪を犯した女性に石を投げる群衆に、イエスが説いた言葉です。
姦通罪は死罪となっていましたが、「人類皆罪がある、果たして人が人を裁く権利があるのか?」という意味にもとることができます。
小山田氏のケースに当てはめると、過去に罪を犯したことは確かです。
いじめは許されるものではありません。
しかし。
それって、いつまで背負えば良いのですか?
反省して、更生したとしても?
一時の過ちや、若気の至り、何もわからない子ども時分の過ちでも?
死ぬまで、背負えということでしょうか。
それなら、過去を現れたら、ほぼすべての人類が罪を犯しているのではないでしょうか?
過去の罪をあげつらって、それを元に今の業績や能力を無視して、断罪することが正しいことなのか?
私は、どうにも疑問です。
オリンピック反対派、もっと言えば政府反対派による政局に使われたのではないでしょうか、とまで思ってしまう。
森元総理のときは切り抜きでしたが、今回は過去の掘り起こし。
こんなことがまかりとおってたら、誰も何もできないのでは?
多様性を叫びつつ、過去まで聖者でなければならないと言う。
いやー、なかなかディストピアになってきましたね。
炎上はどうでも良いのですが、「私刑」の暴風雨が吹き荒れる世界では生きたくない。
以上です。
罪の無いもののみが石を投げよ。
読んで頂き、ありがとうございました!感想などコメントいただけると嬉しいです!